ハイク以上の長文

ブクマはやばいよ、スターを押しな、スターを。

『スリービルボード』

『ファーゴ』にでていたフランシス・マクドーマンドが出ている!と思って、予告の時から楽しみにしていた作品。鑑賞を終え、あーやっぱりこれでエンディングだよなぁとなった。事件に対しては現実は甘くない。人とのつながりはどうなるかわからない。

見終えてからが本番っていうくらい深く考え込んでしまうような話だった。みんな強くてみんな弱い。強そうに見えても弱い人がいるし、弱そうに見えても強い人がいる。

この映画を見て改めてアメリカの田舎では人種差別は普通にあることなのかもと思った*1。去年のフランス旅行で偶然一緒になったボストン在住の日本人女性の事を思い出す。「ボストンで差別があるんですか?」ってびっくりしたのだった。彼女の住まいはボストン郊外で、その街にいるアジア人は彼女ただ一人。職場では彼女だけ連絡されないということが当たり前、白人であるご主人は「なんでイエローモンキーなんかと結婚したの?」と言われたこともあったそうだ。これが最近の出来事だという。彼女は差別の理由について「黄色人種を知らないからだと思う」と話す。だいたい黄色人種の風穴を開けておいてくれるのが中国人らしいのだけど、その街にはまだいなかった。でも、彼女を通して少しずつ変わってきたし、ようやく中国人が住みだしたそう。黄色人種にとっての中国人民の存在はかなり大きい。

映画の舞台はミズーリ州の田舎町。日本の田舎同様、個人の病気から何からなにまで住民に筒抜けの町。

殺人被害者の母が主人公。7カ月前に娘がレイプされた挙句、焼死体で発見される。しかし、事件の進展はなし。それに業を煮やして、交通量がほぼない自宅までの道すがらに並ぶ3つの看板に警察への抗議のメッセージを掲載する。

「レイプされて死んだ」「なぜ? ウィロビー署長」「犯人逮捕はまだ?」

名指しされた警察署の署長は『鶴瓶の家族に乾杯』の鶴瓶っぽい愛され方をしている。目撃情報がなく、事件は行き詰まっていたが、なんとか被害者の母の力になりたいと動く。しかし…。

署長の信奉者である白人の警官は黒人差別主義者。何も悪いことをしていないのに黒人だからという理由で逮捕するような畜生だ*2。署長の件で怒り、白人にだって俺は暴挙にでるんだと、看板を立てる一助となった人に暴力を振るう*3。でも、ある事件で被害者となり、暴力を振るった相手の優しさに触れる。

田舎すぎて目撃者がいない。それはわかる。でも、有色人種ってだけで適当な理由つけて逮捕しちゃう。人種差別する前にやることあるだろって、そりゃ看板立てたくなるよ。

署長が善人であるがゆえ、さらに小さな街であるがゆえ、彼の事情をお前だって知っているだろうと看板を出したことにより被害者の母が白い目で見られてしまう。結構エキセントリックな母なのだが、娘を殺された親だったらなんとか解決させたいと動く気持ちは理解してやってもいいんじゃないか?だから署長は動いたんだしって思ってしまう。被害者には被害者らしく振舞ってほしいという思いがあるのか?と勘ぐりたくなる。

マイノリティーがマイノリティーを差別したり、見下したりしちゃう。さらに要所要所でよりによってお前がそれやるのかよ…っていうこともある。それがなければあんな暴挙に出なかったはず…。お前だったのか!と、怒りがこみ上げてくるものの見下していたやつの放った言葉に心が諌められる。その言葉通りのことをしてしまったと後悔が募る。挑発されたからといって、応戦すべきじゃない。疑心暗鬼が起こす、人の業。

キーワードはオレンジジュース。オレンジジュースが心を洗う。罪を憎んで人を憎まず。

*1:日本もないわけじゃないけど…

*2:彼の母親がナチュラルな黒人差別主義者

*3:というか殺人未遂並みの暴挙