読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ハイク以上の長文

Haiku!するには長目で躊躇するやつ用。

子どもの気持ち

一家は4人家族。夫婦と息子、娘。弟も義妹も働いている。義妹は保育士で職場に子供を預けることができた。実子とかぶらない年齢の子を担当すればOKという保育園なのだそう。 

今年、甥は小学2年生に進級し、姪は5歳になった。義妹の両親は若くまだ働いている。うちの両親は実家で悠々自適の生活。仕事帰りに子供達をちょっと預かってくださいと頼られることを母たちは嬉しく思っている。 

去年、ゴールデンウィークに帰省し、小学校に入学したばかりの甥と話した。甥は「学校よりも学童の方が楽しい」と話す。私が「なんで?」と聞くと、「学校は外遊びが面白くない。でも、学童は好きなように遊んでいいんだよ!」と嬉しそうに言った。 

秋頃、実家に帰省。甥は学童があまり好きではなくなっていた。嫌いなわけではなく、大人がなんとなく今日は会社に行きたくないなぁと思うような感じのもの。 

想像でしかないが、初めての夏休みに友達は休んでいるのに、自分は学校のようなもの(=学童)にほぼ毎日行かないといけない。保育園で横並びでみんな一緒に過ごした夏とは違う。幼稚園出身の子もいる。夏休みをちゃんと休む子がいるというのを甥は初めて味わったのだ。 

自分だって休みたいと少し思ってしまったのかもしれない。それ以降、甥はママにわがままをいうようになったそう。幸いうちの親が暇をしているので、前日か当日の朝、見てもらっていいですか?と連絡があったらいいよ連れてきなぁって言っていたのだとか。 

兄だけがばあばの家に行くのはずるいと姪が怒るので姪も保育園を休んでふたり一緒にやってきた。映画に連れて行ったり、一緒に散歩したり、ゲームしたり。 

甥は普段の学童でもばあばに甘えた。「今日はあんまり学童にいたくないからばあば早く迎えに来て」って。甥にとってばあばがいることが逃避手段だったし、弟夫婦にとってもばあばの存在が大きかった。ばあばはわかったよーって早く迎えに行く。実家で甥の好きにさせたそうだ。 

弟夫婦は当然ながら、じいじもばあば、叔母である私も家族みんな甥の気持ちがわかる。子どもだって休みたいときは休みたい。 

だから、父の再就職が決まったとき、家族が甥は大丈夫かな…となった。じきに慣れるだろう。でも、それまでの甥の逃げ場のなさを思うといたたまれない気持ちになるのだ。 

『おとなの事情』

登場人物が少なく、ほとんどが1室で展開する会話劇なので演劇っぽかった。

この旦那ぜったい浮気している!と鼻息荒く思ったり、妻!なぜパンツ脱ぐ!といったシーンが冒頭にある。ストーリーが進むにつれ、そういったシーンを解き明かしていく。

登場人物は、エヴァとロッコ夫妻(娘ソフィアがちょと出てくる)、カルロッタとレレ夫妻(子供ふたりとレレの母もほんの少し出る)、ビアンカとコジモ夫妻。そしてペッペ。男性4人は幼馴染で、妻は男性を通じて親しくなったようだ。ほぼ7人の会話劇。

エヴァとロッコが友人たちをディナーに招く。会食が進むうち、信頼できる者通しなら携帯を見せられるはずだとなる。皆がテーブルに携帯を置き、電話がかかってきたらスピーカーモードで会話し、メールはメッセージを皆に見せるといったゲームをすることに。

妻に浮気を隠したくて友人と携帯を取り替えてほしいと提案したことがきっかけで友人たちの性的マイノリティーへの偏見が露わになる。既婚者なのにモテるからと手当たり次第女性に手を出しすぎて数々の情事がばれてしまった者も。

大人なので表面的に取り繕うことがうまく、側から見ると順風満帆に見える。けど、実情は違っていた。裏切って裏切られて、お互い隠し事がある。結末には「ええ!?」どういうことってなったりした。

『ムーンライト』

思っていたのと違った!というのが感想。

黒人コミュニティーでゲイとして生きる人の生きづらさのようなものに焦点を当てた作品かなと思っていたけど、恋愛映画だった。

 

主人公シャロンの少年期、青年期、壮年期をその時々のニックネーム「リトル」、「シャロン」、「ブラック」に分けて描く。3章に分かれている感じ。

少年期

薬を売買する危険地域で偶然知り合った薬の売人フアンとその彼女テレサが、子供としてのシャロンを支える存在になる。おそらく子供が自分以外を頼ることへのあてつけだと思うが、母がシャロンに対して言ってはいけないことを言う。

青年期

フアンの忠告があったのに、それに反するかのように過ごしてきた自信なさげなシャロンの姿がそこにはある。相変わらずいじめのターゲット。母は薬に溺れている。テレサを頼ることもできず、途方にくれ、浜辺へ行くと幼い頃から親しくしていたケビンに出会う。この日、ケビンに会ったことでシャロンは本当の自分のことを知ったのではないかと思う。

壮年期

青年期にいろんなことがあり、違う土地で暮らすことになったシャロンはフアンと同じように売人になっていた。虚栄を張るように生きてきた彼は強面の男である。少年時代に母から言われたことは今ではトラウマになっている。それでも母から「あなたを愛してるあなたがそうでなくても」と言われ、心がほぐれていくようだった。テレサと連絡を取り合っていたことがきっかけでケビンと通じることになる。

 

今にして思うと映像がくらくらしていたシーンはヤク中の視線だったのかもと思った。ひとりの男性が自分のセクシャリティを自覚し、ひとりの男性に好意を抱く。屈強な黒人男性といえども性はその人の性。そんな人にもおこりえる純愛ストーリーだった。

 

『はじまりへの旅』 

期待値が高すぎたからイマイチ自分が乗り切れなかった。ウェス・アンダーソンノア・バームバックっぽい映画を期待してたから「それほどでも…」っとなってしまった作品。ただ、ノーム・チョムスキーが好きすぎる家族で笑った。あと、3女が動物の解剖らしきことをする部屋にポル・ポトのブロマイドらしきものが貼ってある。そんなブラックジョークにも笑った。

主人公のベンは先鋭化したナチュラリスト無政府主義者、6人の子供のお父さん。獲物は狩猟によるもので、水は雨水(湧き水もあるか)、住まいや衣類はDIY、収入は手作りしたもので得ている。小さな暮らしを実践しており、福島にあるヒッピー村とかを思い出したりした。

山暮らしをするため、子供たちへ日々のトレーニングを課している(ロッククライミングなど度が過ぎる)。また、勉強として哲学書、古典文学なども読ませている。

文学についてコメントを言わせるシーンに震え上がった。ベン「それは、あらすじを言ってるだけだ」。その物語が示唆するものを答えよということなのか、単純な感想で良いのですか?「興味深い」これ禁句。恐ろしい世界だ。

心を病んで自殺した妻(母)の葬儀に向かう旅で山暮らししか経験してなかった子供たちが外の世界を知る。勉強はできるし、運動も得意。だけど、他者と接する機会がなかったから社会性がない。それを子供達も父親も知っていく。

父親は義理の両親とぶつかっていくことや子供達に起こるトラブルを通して、気づきを得ているようだった。隔絶された山での自然暮らしがいいとは限らない。

単純に縄文人弥生人になったみたいなストーリーだなって思った。

『牯嶺街少年殺人事件』

1991年に制作された作品のデジタルリマスター版を観てきた。上映時間がとんでもなく長い。初公開時はもう少し短縮されたものだったそうだが(それでも約3時間)、今回は約4時間! 途中、腰が痛くなった。

1961年に台北で実際に起こった殺人事件に着想を得て作った作品。中学生男子が付き合っていた同級生の彼女を殺害するというもの。

それを軸に1960年代の台湾の時代背景を描写しながら家族、恋愛をみせて行く。

太平洋戦争後、少しでも暮らしが良くなるようにそんな思いで中国本土から台湾へやってきた人たちを外省人というそうだ。台湾は終戦から年月も経たず、敵同士だったものが同居する街になる。ほどなくして朝鮮戦争が始まり、目には見えない重たい空気が覆う。それは体制批判を許さない言論弾圧が始まっていたことを意味していた。ターゲットとなったのは中国本土出身者の外省人。そんな外省人が置かれた姿もあらわにする。

主人公の少年、小四(シャオスー)も外省人家族の子供。ほとんどの外省人家族がそうであったように彼ら一家も皮肉なことに敵であった日本人が作った日本家屋で生活している。ドラえもんのように押入れを寝床としているシーンは台湾で押入れって死ぬほど暑そうなどと思った。

小四の通う学校は自由な校風をうたい1日中開放されている。昼間部と夜間部があり、小四は学力があるものの夜間部に通う。夜間部は非行少年が多く地域ごとに派閥があり、喧嘩が絶えない。両親は悪影響を受けないように昼間部の転部を促している。

ヒロインは東洋美人という顔立ちの小明(シャオミン)。清楚な雰囲気でありながら娼婦のような子で、不良少年らから恐れられている派閥のリーダーのガールフレンドだ。小四はひょんなことで彼女に出会い恋をする。

初恋の甘酸っぱさと盲目。彼女を好きすぎるあまり自分の手でビッチな彼女を変えたい何て思ってしまう。しかし、彼女は変わりたいだなんて微塵も思っていない。

本命女子への当てつけかうまくいかないことへのモヤモヤを払拭するためか本命ではない女子とデートをする。そのとき、その子から言われた言葉が小四への忠告のようでもあったが、その言葉は届かない。自分だけを見てほしい。自分だけのものにしたい。 そう思ってしまった気持ちを抑えることができなくなってしまう。

この当てつけデートがきっかけでジェットコースターのように話が進む。そこからそれを取らないで!と叫びたくなったりした。

当時の世相を表すような鬱屈とした暗いシーンが多い。それぞれの登場人物が持つ憂いのようなものが描かれる中、癒しとなったのが小四のクラスメイトの小猫王(リトルプレスリー)だった。彼はソプラノボイスを売りにバンドのボーカルをやっている。アメリカ大好きっ子。彼のシーンだけは和んだ。

映画を見ていたとき、今回のデジタルリマスター版のチラシに使われていたシーンがとてもいいシーンだなと思った。しかし、映画を観終えたあとは感想が変わる。とても切ない場面のひとつだった。

小四とお父さんとが自転車を押しながら家路へ向かうシーン、小豆かき氷を食べるシーン、深夜の学校で停電が一時復活した時に映る少女(おそらく小明)、殺人を起こした子が実はいい子であるというシーンも書かれている。

とてつもなく長く。色々な要素が盛り込まれた作品。少しでも記憶にとどめておきたくて事細かに書きたくなってしまう。

『ストロングマン』

ほぼ全編中年男性しか出てこない映画。 

笑い泣きした。とてつもなくくだらなく、とてつもなく愛おしい男たちの物語。

男の見栄とプライドをかけた熱きバトル。 

 

船長と料理人付きのクルーザーをチャーターし、エーゲ海で釣りやダイビングなどを楽しむ男性6人。 

夕食後にゲームをしたときのこと、メンバーのひとりヨルゴスが「こんなくだらないゲームで勝者を決めるなんてばからしい」というようなことをいい席を立つ。 

するとクリストスが幼いころに友達と遊んでいた“ストロングマン”をやろうじゃないかと提案。それは些細なことにまで順位を決めて最終的に皆が決めた順位から最高の男を決めるというもの。 

その夜から寝相にまで順位を付け始める。いいパンツをはいているからの会話劇。なぜ半裸なんだ、あえて狙って(パンツアピールのための)の半裸なのか!というようなアホさ。 

セリフの端々からばかばかしさがにじみ始める。インポの疑いをかけられた男はそうでないことを証明するためにメンバーのうちの一人に官能小説を朗読してもらう。「感情がこもってない」からの展開は笑いしかない。 

いちばんの年長者で尊敬されているはずの先生がわがままな爺さんであからさまに娘婿のヤニスを嫌っている。そんな爺さんの大人気なさも、ヤニスと実弟ディミトリスのやりとりも非常に面白い。 

クルーザーの乗務員たちまで誰がストロングマンかを話し始める。そんな彼らのやりとりもコントのよう。 

深く何も考えたくないときや、笑うことでクサクサした気持ちを前向きに変えたい時に見たい映画だ。

ひとり

ついにひとりで暮らした期間が家族と暮らした期間を超える。これまでも今も誰かと一緒に暮らすことを想像したとき、恋人の姿が浮かんだことがない。強いて言えば今後のこともあって両親だ。

ひとりが寂しいときもある。SNSに書き込むまでもなく友達に言うようなことでもない、そんな瑣末なことを言える存在がいる喜びがあると思う。けれど、そんな相手が絶対欲しいという熱情がない。

性的に満たされなくてというようなものも過ぎた。まともに恋愛をして恋人を作ってということをしていたら精神的にも性的にも満たされるために共に過ごしたい誰かを本気で探したかもしれない。しかし、そんなことがなかった。ひとりで暮らし、ときどき友達と遊ぶ。それで満たされてきた。

ふと誰かと生きたいと思って婚活したのは自分のスキルに対する自信のなさからだった。自分の稼ぎが少なくて将来を不安に思い、身勝手にも誰かと共に生きることでその不安を軽くできたらと思ったのだ。

私が誰かと生きたいと思ったのはひとりでいる寂しさからではない。金銭的な不安だ。それに気付いたとき、私は自分で稼いで自分で不安を払拭していくことを選んだ方がいいのかもしれないと思った。うまくいかなかったとき、間違いなく相手のせいにする。

なお、高齢独身は何か問題があると言われることがあるが、それは否定できない。確かにと自分に思い当たる節が多々ある。仮に結婚できたとしたら自分でも結婚できてラッキーくらいに思っておくのがちょうどいい。